青ノ山1号窯跡(昭和59年8月14日 県指定史跡)

青ノ山に残る須恵器窯

画像:地図氷河期が終わり、温暖になると、山には、ドングリのなる木が生い茂る。縄文人は、動物や魚以外に木の実も食べるようになり、これを煮炊きし、貯蔵する道具として土器が生まれた。800~900度で焼かれる素焼きの土器は、時代区分から縄文土器、弥生土器、土師器と呼ばれる。
5世紀に朝鮮半島南部から渡来した人たちによって須恵器の生産技術がもたらされた。素焼きの土器と違い、灰色や青灰色で、硬く強い。水漏れしにくかったことから、食器以外にも貯蔵用具として重用された。
須恵器は轆轤を用い、窯で焼く。窯は丘陵の斜面に築かれ、焚口、燃焼部、焼成部、奥壁、煙道部があり、焼成温度は1000度以上になる。生成には、粘土などの材料や燃料となる木材も大量に必要だった。巨石墳と呼ばれる大型横穴式石室を持つ古墳の出現と須恵器窯との関連から、工人集団を率いた豪族が須恵器の生産を行ったと推測される。

青ノ山には6世紀後半から7世紀初頭の古墳群がある。昭和54年、巨石墳の青ノ山7号墳(消失)を緊急調査した際、近くの工事現場で窯跡が発見された。青ノ山南麓の墓地公園入り口付近だった。調査で、焼成室が残っている貴重な須恵器窯と分かり、保存整備された。復元してみると、全長9~10mの無段地下式登り窯(窖窯)で、7世紀以降のものと考えられる。
青ノ山7号墳の被葬者との関連が指摘されているが、1号窯跡で生産された須恵器が、7号墳から出土していないことから、これ以外の窯跡があった可能性は十分に考えられる。「土器」という地名のとおり、古代、土器作りが盛んな地域だったのかも知れない。
県内では、7世紀中ごろ以降になると、各地にあった主な須恵器窯はおおむね操業を終える。綾川町の十瓶山山麓が主な生産地となり、13世紀前半まで須恵器が生産されていた。

画像:出土した須恵器

画像:調査時の様子

画像:青ノ山1号窯跡


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