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丸亀城天守みどころ案内
丸亀城天守内のみどころ
1階
2階
3階
狭間(さま)
三角形や四角形に開けられた穴は「狭間」と呼ばれ、鉄砲で天守内側から外にいる敵を攻撃するために設けられたものです。常時は雨水や風、鳥などの侵入を防ぐために引き戸により蓋ができるようになっています。狭間を内側から見ると、外側より一回り大きな穴となっており、外側に向けて狭くなくなるようにつくられています。これは内側の穴を大きくすることで、鉄砲の向きや角度が変えやすくなるため、敵の動きに対応して狙いを定めることができます。かつて天守の北側が三の丸から二の丸に上る裏口通路であったことから、その防御を意識して北壁に狭間が設けられたものと考えられます。
石落とし(いしおとし)
北壁東寄りの一部が外側に張り出すようになり、床板を外すと細長い穴が開いている箇所が「石落とし」となります。その名の通り外の敵に対して石を落とすことで敵を退ける仕掛けと考えられますが、鉄砲を使用することもでき、様々な攻撃方法が可能だったと考えられます。北壁には攻撃する仕掛けとして狭間もありますが、狭間からでは石垣際など直下の範囲はどうしても攻撃することができません。また天守北側の三の丸から二の丸に上る裏口通路にはかつて門があり、敵を足止めすることはできますが、上へ登ろうとする敵にはよい足場となる可能性もあります。そのため、石落としはちょうど門の真上に設けられており、足止めした敵、登ろうとする敵を攻撃し退けるために合理的だったと考えられます。
柱の加工
柱の表面に光があたると、ウロコのような形が浮かび上がり、触れてみると滑らかななかにもわずかな凹凸を感じることができます。これは柱の表面を手斧(ちょうな)で削り仕上げた跡になります。柱の表面一面に広がるウロコ状の加工跡を一つ一つ丁寧に観察すると、一つの方向に向かって規則的に削っているもの、途中でその向きが変わっているものなど、当時柱を仕上げた職人の動きが想像できます。
床板(ゆかいた)
床を見てみると幅の異なる床板が敷かれていますが、幅の広いものが江戸時代のもの、幅の狭いものが昭和の解体修理の際に取り換えたものになります。
燧梁(火打梁 ひうちばり)
4隅には3本の柱が建てられており、2つの壁の角にある柱を「隅柱(すみばしら)」、隅柱の隣に各壁に1本ずつある柱を「添え柱(そえばしら)」と呼びます。この添え柱を繋ぐように水平に架けられた短い梁を「燧梁」と呼びます。燧梁は地震や強風で生じる水平方向の歪み防止に有効で、建物の構造補強に役立ちます。燧梁の上には隅方向へ斜めに伸びる太い梁があり、これを隅柱、燧梁と内側の柱で受けることで、上からかかる重さを分散することができます。この構造は特に重さのかかる1階と2階の4隅で見ることができます。
太鼓壁(たいこかべ)
床面から190cm程の高さにある貫(水平方向の木材)から壁が盛り上がるように厚く仕上げられた壁を「太鼓壁」と呼びます。太鼓壁は外側と内側にそれぞれ別の土壁があり、その間が空間となっている構造が太鼓に似ていることが名前の由来のようです。間の空間には、小石や瓦を詰め厚くする構造となっています。戦において弓矢などに加え、鉄砲や大砲など威力の高い武器が使用されるようになるにつれ、その弾丸などに耐えられるよう壁も厚くし、防御力を高めています。
大砲狭間(おおづつさま)
2階の北壁に2箇所、東西壁に1箇所ずつ、3階の北壁、南壁に2箇所ずつ大砲狭間が設けられています。この大砲狭間は蓋がされ漆喰(しっくい)で塗り固められているため、天守の外側から見てもどこにあるのかわからない「隠し狭間」となっています。非常時には漆喰を打ち抜いて使用できるような仕組みとなっています。大砲というと台座や車輪がある大型のものを想像してしまいますが、2階と3階へと登る階段の急な角度や幅、天守内側の狭いスペースなどを考えれば、少なくとも手で持ち運びができる大きさの鉄砲でなければ使用することはできません。一方で大砲狭間は床に近い高さに設けられることから、手で持ち運びはできても、抱えたまま使うには難しい大きさや重量の鉄砲を、床に置いて使用することを想定したものと考えられます。
祈祷札(きとうふだ)
昭和の解体修理をした際に南東隅の壁の中から長さ75.8cm、幅13.9cm、厚さ6mmの檜の板札が発見されました。板札には、工事の安全を願う文言と万治3(1660)年の年号が墨書されていました。丸亀城天守については、正保2(1645)年に幕府に提出した「正保城絵図」や、明暦3(1657)年頃に描かれた「山﨑時代の丸亀城郭絵図」にすでにその姿が描かれますが、絵図がこれから築く予定の設計図として描かれたものなのか、その当時の現状を描いたものなのかによっては、丸亀城天守があったのかなかったのか評価が分かれるところです。一方でこの祈祷札については、天守の壁に埋め込まれていたことにより、少なくとも1660年までに天守が建築されていたことを裏付ける貴重な資料となりました。現在は祈祷札のレプリカが壁の中に埋め込まれており、実物は資料館で保管しています。
道具
昭和の解体修理内容が刻まれた銘板や、修理に使用した定規などが柱や梁に添えられています。道具箱の中には、昭和の解体修理の際に交換した木材に修理した年号を刻むために使われた焼印が保管されています。