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笠島城跡(東山城跡) (昭和62年10月30日 県指定史跡)

ページID:0001022 更新日:2022年12月22日更新 印刷ページ表示

水軍の館城

画像:水軍の館城笠島城跡は本島の東北端、笠島集落の東側、標高約40m(東山)の丘陵頂部にある。
塩飽諸島付近は、鳴門海峡と豊後水道からの潮流が交わる良好な漁場であり、瀬戸内の海上交通の要衝でもあった。塩飽の人々は潮流を読むことにたけ、操船や造船を得意とし、中世ごろには塩飽水軍として活躍した。
戦国時代初期、塩飽の代官は安富氏、続いて能島村上氏が担っている。元亀2年(1571)、阿波勢と毛利勢が戦った元太合戦は笠島城跡から目と鼻の先の児島で行われた。塩飽衆は阿波勢に属し、能島に兵糧を輸送し毛利勢に襲われている。
江戸時代の島内記録によると、織田信長が活躍したころ、笠島浦に福田又次郎の城があり、長宗我部軍に攻め落とされたとある。天正3年(1575)、薩摩の島津家久が京都へ上洛する旅日記に、福田又次郎の館に立ち寄った記述がある。この館が笠島城跡かもしれない。
天正10年(1582)4月24日、塩飽や能島・来島衆は羽柴(豊臣)秀吉に人質を差し出し、塩飽の諸城を明け渡している。以後、塩飽衆は天下人の海上輸送を担うようになり、慶長5年(1600)、徳川家康から塩飽の船方衆650人に1250石の領有が認められた。
笠島城跡には3段の平坦な曲輪があり、各曲輪には建物などが建っていた。城の主要部は、南北約50m、東西約35mを測り、主郭とその東の一段下がった副郭となる。主郭の西側(集落側)縁辺には土塁が残る。曲輪の外側は切岸にして、急斜面で容易に登ることができない。尾根筋の前後は、主郭から高低差が約3~5mの堀切で谷地形となり、尾根筋を遮断する。堀切は、西側で竪堀となり、東側では3段目の細長い帯曲輪に通じている。城へは堀底を通り、帯曲輪を経て、副郭から主郭へ行くのが本来のルートであろう。
笠島城跡は、平地居館の形態を丘陵上に造った戦国末期の「館城」である。県下の水軍の城跡でこの形態は珍しく、笠島城跡と直島町本村にある高原城跡の2例にしか見られない。故に、笠島城跡は水軍の城の中でも特別な城である。
画像:本島 笠島城跡画像:笠島城跡縄張図

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