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西長尾城跡(国吉城跡) 平成16年9月27日 市指定史跡

ページID:0001039 更新日:2022年12月22日更新 印刷ページ表示

讃岐戦国時代を今に伝える山城

一般的に「城」といえば、「丸亀城」などの天守や土塀、石垣を思い浮かべる。これは近世城郭と呼ばれる江戸時代に完成された城であるが、日本史上、それ以前にも「城」が築かれてきた時期がある。
一つは、663年に白村江の戦いで唐・新羅に敗れた日本が、さらなる侵攻に備えて対馬から太宰府周辺・瀬戸内海沿岸に26の朝鮮式山城と呼ばれる山城を築いた古代である。
もう一つは、鎌倉時代後半からの国内での内乱に伴い、全国各地で山城・平城・居館などが配置されていった中世から戦国期にかけてである。この時期には、多くの城館が築かれており、県内でも400か所以上を数える。現在、目にすることのできる城館の大半が山城と呼ばれる山中に築かれたものである。

画像:丸亀平野南部の連山を望む讃岐を代表する著名な山城の一つとして、綾歌町南部の城山山頂付近に所在する「西長尾城跡」が挙げられる。西長尾城は、白峰合戦での軍功を認められた三野郡詫間郷筥御崎領主海崎伊豆守が長尾大隈守元高と名乗り、応安元年(1368)に城主となり、中讃の拠点として活躍した城である。以来、代々の長尾一族によってこの地で勢力を拡充しており、炭所、岡田、栗隈などに支城を構え、阿野、鵜足、那珂郡の南部で勢力を誇った。
天正六年(1578)からの土佐の長宗我部元親による讃岐侵攻によって、長宗我部氏の重臣である国吉甚左衛門が城主となる。この際に城域の拡大・整備を図っており、国吉城とも呼ばれている。天正十三年(1585)、豊臣秀吉の四国征伐によって廃城となる。

画像:連郭式郭列現地には、城を囲っていた連郭式郭列(列状に連続する曲輪と呼ばれる削平地)が残っている。また、その周辺には、堀切、竪堀(山の斜面などを深く掘り込んで進攻を防ぐもの)が設けられている。
主郭である城山山頂からの展望は、屋島、岡山、愛媛など広く開けており、周囲の主要な城と対峙しながら交通ルートを眺望できる。
また、現地はハイキングコースとして、年間、多くの登山者が訪れる。

画像:城山からの眺望画像:地図

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