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宇閇神社古墳(平成16年9月27日 市指定史跡)

ページID:0001041 更新日:2022年12月22日更新 印刷ページ表示

南部山麓にたたずむ横穴式古墳

我が国では、紀元前2世紀ごろから7世紀ごろにかけて活発に墓が築かれた。これは、首長や権力者たちの力を象徴するために大型の墓造りを行ったのである。
特に、3世紀ごろからは墳丘を持つ大きな墓が盛んに造られるようになる。3世紀半ばには古墳造りが確立することから、以降を「古墳時代」と称する。
古墳時代は、首長墓として前方後円墳を築く前期(3世紀半ば)に始まる。代表的なものに、快天山古墳、吉岡神社古墳、三の池古墳がある。主体部は、後円部の中心に竪穴式の埋蔵施設が設けられる。
中期では、一般的に古墳は大型化されるが、中讃地域の墓は首長クラスからやや下層階級へも広がっていく。綾歌町富熊の地神山古墳で前方後円墳も確認されているが、大半は円墳である。岡田万塚や城山古墳群、畦田古墳群などがそうであり、主体部は、前期古墳同様に竪穴式となっている。
6世紀以降は後期に分類され、中讃地域の古墳造りは、直径10~20mほどの円墳が主流となる。主体部が、横穴式石室となり、古墳の側面から羨道を通じて玄室内に出入りできるようになる。このため、後期古墳は家族墓として使用され、追葬が可能となり、複数回にわたり被葬者を弔うようになる。
後期古墳は、市内では青ノ山山麓、飯野山山麓、綾歌町南部山麓に群集している。
そのうち、綾歌町栗熊西の宇閇(うのい)神社境内にある宇閇神社古墳は、直径16~17m、高さ4mの円墳である。中心部の玄室は市内最大で、奥行き4.9m、高さが2mある。既に盗掘されていたため、棺、副葬品ともに残されていないが、市内にある後期古墳で、ほぼ完全な形の数少ない古墳の一つである。
付近には、数か所で横穴式石室の古墳が確認でき、麓には、権力者を有する集落が多く営まれていたことが伺える。

画像:宇閇神社古墳(開口部、玄室内部)
宇閇神社古墳

画像:綾歌町南部の山麓に群集する後期古墳画像:地図

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