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中津万象園(昭和50年5月30日市指定名勝) 京極高朗墓所(昭和53年11月28日市指定史跡)

ページID:0001043 更新日:2022年12月22日更新 印刷ページ表示

市内に残る京極氏の遺跡

画像:中津万象園市内に残る丸亀藩主・京極氏の足跡として、中津万象園と6代高朗の墓所がある。
中津万象園は江戸時代、中津別館や中津御茶所とも呼ばれていた。名称は、旧毛利藩士で書道・茶道に秀でた野村素軒が茶屋の額に「万象園」と書いたことに由来する。
二代高豊が貞享5年(1688年)、下金倉村の海辺の中洲に別館を建て御茶所として以降、代々の藩主が幕末まで使用した。
その後、荒廃していたが、明治と昭和の補修で現在の姿となった。
中津万象園は池泉回遊式の大名庭園で、約3万5千平方メートルが市の指定名勝となっている。栗林公園とともに県下に残る名園である。園内には市指定文化財の茶亭と母屋が残り、南側には樹齢600年の美しい枝ぶりの大傘松がある。

中津万象園から南へ延びる多度津街道までの道筋に「お茶屋道」という名が残り、予讃線南側には「御用井戸」と呼ばれる地名がある。そこに、殿様に献上するお茶用の水をくんだとされる井戸跡がある。
名君であった高朗は、中津別館に憩い、魚楽亭や観濤楼と呼ばれた茶亭などで涼をとり、庭園や瀬戸内の景勝を眺めながら詠った詩歌を「琴峰詩鈔」に収めている。
高朗は明治維新後、「居所は東京に」という政府の方針に従わず、一人、丸亀の地で晩年を送る。藩主代々の墓所は滋賀県米原市の徳源院清滝寺にあるが、丸亀をこよなく愛した高朗は明治7年(1874年)、77歳の生涯を終え、南条町の玄要寺の境内に眠っている。「従五位京極高朗之墓」と記された墓石があり、維新政府の方針に従い、神道式の鳥居がある墓所となっている。

画像:茶亭と母屋画像:御用井戸
画像:西幼稚園の南側にある京極高朗墓所。門や扉には京極家の四ツ目の家紋が刻まれている画像:地図

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