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交流都市:サンセバスティアン(スペイン)

11 住み続けられるまちづくりを
ページID:0001117 更新日:2023年3月17日更新 印刷ページ表示

フスト・セグラ神父様が逝去されました

フスト・セグラ神父様

姉妹都市、スペイン・サンセバスティアン市出身で、丸亀市との姉妹都市提携のきっかけを作られたフスト・セグラ・エラスティ神父様が逝去されました。

セグラ神父様は1963年にカトリック宣教師として来日し、1970年から1985年までの間、丸亀および坂出の小教区に赴任されました。丸亀カトリック教会の司祭を務めながら、丸亀聖母幼稚園の園長として幼児教育に携わっておられましたが、1985年夏、聖母幼稚園卒園生の青少年9名を引率してサンセバスティアン市を訪問したことが両市間の友好交流のきっかけとなりました。

日本にとどまることを決意されたセグラ神父様は丸亀、坂出小教区での活動後も、大阪、兵庫を中心に精力的に活動されていましたが、令和5(2023)年3月5日、帰天されました。

これまでの神父様の功績に心から感謝いたします。

 

 

サンセバスティアン市・丸亀市 交流のきっかけ

画像:堀家市長(当時)、井澤教育長(当時)の親書1985年7月、スペイン・バスク地方出身で丸亀市内にあるカトリック系幼稚園の園長を務めていたフスト・セグラ神父の引率により、市内の学生たちがサンセバスティアン市を訪問した。その際、堀家市長(当時)、井澤教育長(当時)の親書を携行し、サンセバスティアン市長へ手渡した。
これをきっかけに両市の交流が始まり、翌年6月には大藪助役(当時)を団長に事前調査団が同市を訪問し、堀家市長からアルビストゥール市長への親書を携行した。
さらに1990年7月には、アルビストゥール市長をはじめ、サンセバスティアン市の訪問団一行8名が丸亀市を公式訪問し、その際、姉妹都市提携の実現に向け両市長が共同声明に調印した。
そして同年11月6日、堀家市長ら丸亀市訪問団がサンセバスティアン市を訪問し、同市市議会議場において、姉妹都市提携に調印した。また、翌1991年4月9日には、サンセバスティアン市訪問団を招き、姉妹都市調印式が丸亀市で開催された。
以来、丸亀市とサンセバスティアン市とは、中学生を派遣したり、児童絵画の交換を行ったりなど、教育・文化・スポーツを中心に友好の歴史を綴っている。

サンセバスティアン市の概要

画像:サンセバスティアン市マップサンセバスティアン市は、スペイン北部、フランス国境に近いギプスコア県に位置し、大西洋に面している。首都マドリードからは飛行機で1時間足らずで到着する。
ギプスコア県の県都として、当地方(バスク地方)の政治経済の中心地となっており、人口は約18万人である。気候は、メキシコ湾からの暖流により、高緯度のわりに温暖で、丸亀市とほぼ同様である。美しい海岸に恵まれ、ヨーロッパ有数のリゾート地として注目されており、夏ともなれば、観光・保養客で人口が50万人にも激増する。市街地には、歴史を感じさせるフランス風の建物が整然と並び、すばらしいたたずまいをみせている。サンセバスティアン市と丸亀市は平成2年11月6日に姉妹都市提携を結び、文化・教育等を中心にさまざまな交流を行い、友好の歴史を刻んでいる。

サンセバスティアン市の観光案内

サンセバスティアンの市内は、ふたつの小高い丘モンテ・ウルグルとモンテ・イゲルドとその間に広がるコンチャ海岸、そしてウルメア川の位置を頭に入れておけば道に迷うことはない。
「ビスケー湾の真珠」という別名をもつサンセバスティアンは、美しい海と砂浜、歴史的に重要な建築物、そしてバスク人たちの活気ある生活ぶりを一度にうかがえる恰好の場所である。そこで、ここでは市内の名所の数々を簡単にご案内しよう。

コンチャ海岸(Playa de la Concヘクタール)

画像:コンチャ海岸( Playa de la Concヘクタール )ふたつの丘にはさまれたコンチャ海岸は、ビスケー湾の真珠・サンセバスティアンの最も代表すべき場所だろう。長さ1,850メートルにおよぶ海岸の描くカーブが、貝殻(Concヘクタール)のかたちに似ていることからこの名前がついたという。夏になると海岸にはスペイン国内だけでなく、ヨーロッパ各国からの海水浴客でたいへんにぎわう。また海岸に沿って遊歩道があり、春先などは街灯の下でサッカーに興じる少年たちに出会ったりと、なんとも心のなごむ美しい風景が見られる。

ウルメア川と漁港(Rio Urumeay Puerto pesquero)

画像:ウルメア川と漁港( Rio Urumeay Puerto pesquero )ウルメア川はさほど大きい川ではないが、クルサール橋、サンタ・カタリーナ橋、マリア・クリスティーナ橋という3つの記念橋がかかっている。
これらの橋から見渡す川岸の家並はすべて同じ高さと色調にそろえられ、とてもきれいだ。数世紀にわたって漁業と海上貿易で発展してきたサンセバスティアンの港は、その当時庶民の生活の拠点であった。
しかし観光化が進んだ今では漁獲量がだいぶ減り、海運もほとんどが他の港に移された。それでも漁を終えて港に着いた漁師たちの活気に満ちた姿と、船から下ろされる魚の種類の豊富さは健在だ。それから今では漁船に代わってレジャー用の船が波止場をうめつくしており、帆柱がいっせいに立ち並んでいるさまは見事だ。

サンセバスティアンには、建築学上または歴史上価値ある建物が数多い。
そこで、特色のあるいくつかをご紹介しよう。

もとカジノだった市役所(Ayuntamiento)

画像:もとカジノだった市役所( Ayuntamiento )19世紀末、ヨーロッパの観光地として脚光を浴び始めていたサンセバスティアンはダンスや賭博のためのクラブ会館をつくり、さらに観光設備の充実を図ろうとした。そして1897年、7000平方メートルという敷地を費やしてこの建物が完成した。その後、カジノには有名な政治家、作家、実業家たちが集い、町の発展の原動力となった。
しかし1924年、賭博禁止令が発令され、カジノも閉鎖されることになった。それで当時、「憲法広場」にあった市役所が1947年、この建物に移されてきたわけだ。

サンテルモ博物館(Museo San Telmo)

画像:サンテルモ博物館( Museo San Telmo )16世紀前半、ドミニコ修道会の修道院として建てられたこの建物は、ルネサンス様式の建築で円柱を中心にして半円形のアーチとせりもちの丸天井があるのが特徴である。1836年から20世紀に至るまで兵舎となっていたが、1928年、市が取り戻して市立博物館に改築した。
現在ではバスク地方の民俗・考古学の展示物とバスク絵画のほか、ルーベンス、エル・グレコなどの作品が保存されている。

カテドラル(Catedral del Buen Pastor)

画像:カテドラル( Catedral del Buen Pastor )新市街の中心に位置するカテドラルは1897年、建築家マヌエル・エチャーベの手によってつくられた。
ゴシック様式で左右対称のもの建物は、サンセバスティアン最大の教会であり、総面積1915平方メートルである。

ビクトリア・エウヘニア劇場(Teatro Victoria Eugenia)

画像:ビクトリア・エウヘニア劇場( Teatro Victoria Eugenia )1912年、国王の臨席を得て落成したこの劇場は、今でもサンセバスティアンの文化の殿堂である。
完成当時、高級リゾート地として名をあげていたサンセバスティアンが素晴らしい装備を誇る劇場をつくったということで注目を受け、世界各国の有名な音楽家たちを招いてコンサートが盛大に行われた。
また1953年に「サンセバスティアン国際映画祭」が設けられ、世界中の映画関係者たちにも広く知られるようになった。

海あり、山あり、と地理的条件に恵まれているサンセバスティアンでは、あらゆるスポーツが活発に行われている。なかには、バスク地方特有の一風変わったスポーツもあり、観光客には必見の価値がある。それでは、特に代表的なものをご紹介しよう。

丸太切り競争(Aizkolaris)

画像:丸太切り競争( Aizkolaris )バスク人は昔から働き者で力持ちらしい。バスク地方特有の競技は基本的に、毎日の労働が変化してできたものが多く、強靱な力と見事な技を競い合う、というのが原則だ。
例えば、草刈り競争や綱引き、牛が石を引きずるレースなどがあるが、なかでも特に人気があるのが丸太切り競争、アイスコラリスである。豊かな森林に恵まれたバスク地方に住む人々は、昔から造船用に木を伐採し、精錬用の炭を焼くため、山にこもって生活していた。
アイスコラリスはそんなバスクの山男たちの中から生まれたものである。競技は、1.5メートルほどに切った丸太を横たえ、できるだけ早くふたつに切った人が勝ちというもの。木の種類はブナが最も適しており、直径50センチほどの丸太を鋭い斧を垂直に振り上げ切っていく。
その選手たちの姿は、まさに迫力、の一言だ。

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